BC469年 ソクラテス・プラトン・アリストテレス

 イエス・キリストが誕生する約500年前に、ギリシャでは、哲学者が真理の一部を解説しはじめた。
 またこの頃、ブッタも誕生し、イエスキリストの誕生を予言している。

真理的哲学者の出現


真理に即した観点

 この時代、ソクラテスは真理の探究(哲学)を強烈に実行し、人々の目を開かせた。その弟子プラトンは特にイデア論によって、人間の根本について、神のシステムに大きく近づいた。
 アリストテレスはあらゆる神の英知、学問や化学や動物学その他、現代の学問のほとんどを網羅するほど、知性の爆発を見せた。

 このギリシャの哲学の時代、世界の芸術や技術、学問、道徳など、精神と科学のバランスが程よくとられて、人類の進化は健やかに成長した時代である。これらが14世紀に復興し、バランスが取れた時、ルネサンスが生じた。

紀元前384年 アリストテレス

 プラトンの弟子。前384年 - 前322年[1])は、古代ギリシアの哲学者。
 ソクラテス、プラトンとともに、しばしば西洋最大の哲学者の一人とされる。知的探求つまり科学的な探求全般を指した当時の哲学を、倫理学、自然科学を始めとした学問として分類し、それらの体系を築いた業績から「万学の祖」とも呼ばれる。特に動物に関する体系的な研究は古代世界では東西に類を見ない。
 アリストテレスは、人間の本性が「知を愛する」ことにあると考えた。ギリシャ語ではこれをフィロソフィア[注釈 2]と呼ぶ。フィロは「愛する」、ソフィアは「知」を意味する。この言葉がヨーロッパの各国の言語で「哲学」を意味する言葉の語源となった。著作集は日本語版で17巻に及ぶが、内訳は形而上学、倫理学、論理学といった哲学関係のほか、政治学、宇宙論、天体学、自然学(物理学)、気象学、博物誌学的なものから分析的なもの、その他、生物学、詩学、演劇学、および現在でいう心理学なども含まれており多岐にわたる。アリストテレスはこれらをすべてフィロソフィアと呼んでいた。アリストテレスのいう「哲学」とは知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体であり、現在の学問のほとんどが彼の「哲学」の範疇に含まれている

より詳細は Wikiを参照-アリストテレス


紀元前427年 ブラトン

 ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師。
 紀元前427年 - 紀元前347年)は、古代ギリシアの哲学者。
 プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」とまで言われている。
 
 ソクラテスの死後、30代で「ソクラテス問答法」にて執筆を続け、40歳頃ピタゴラス学派と交流をもち、数学、幾何学、輪廻転生、霊魂の概念を重視し、イデア概念を醸成していく。

イデア論

 目に見えない真理、物事の原型についての考えである。
 プラトンは次のように説明する。

  我々の魂は、かつて天上の世界にいてイデアだけを見て暮らしていたのだが、その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。
 そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を渡ったため、以前は見ていたイデアをほとんど忘れてしまった。
 だが、この世界でイデアの模像である個物を見ると、その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに思い出す。このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、かつて見ていたイデアを想起するとき、我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる


 プラトンの哲学は、劇的な展開をとげ、強固な二元論である。(二元論=表には裏がある、善には悪がある・・・・相反する対となる二面性)。真の philosopher(愛知者)は、できるかぎりその魂を身体から分離開放し、魂が純粋に魂自体においてあるように努力する者だとした。この愛知者の魂の知の対象が「イデア」である。
 イデアは、それぞれの存在が「何であるか」ということに比較して、「まさにそれであるところのそのもの」を意味する。

Kenの解説= ダスカロスのイデアの考えに近づいてる論理である。本質的には同じと言える。

より詳細は Wikiを参照-プラトン


紀元前469年 ソクラテス

 BC470年頃〜BC399年。
 古代ギリシャ、アテナイ出身の最も初期の哲学者。倫理学(道徳哲学)を築いた。
 ソクラテス自身は一冊も著書を書いていない。そのため彼自身の記述からは知ることができない。しかしソクラテスの死後、その弟子のプラトンとクセノフォンがソクラテスに書いており、そこから知ることができた。

 プラトンの『ソクラテスの弁明』、「対話編」から、ソクラテスの「倫理学」と「認識論」について知られた。 

 裁判と死刑

 弟子のカイレフォンが、アポロンの神託所で「ソクラテス以上の賢者はいるか」と尋ねると「いない」と答えた。ソクラテスは自分は何も知らない愚者だと思っていたため、それを聞いて驚いた。それで、その言葉を試すために、当時賢人と知られていた人々を訪ね、問答(ソクラテス式問答)してみると、彼らは自分の語っていることを理解していない事を知った。彼は「自分が知らないことを知っていると思い込んでいる人は、自分は何も知らないと思っている人のほうが少しばかり知恵が優れているのだ」と理解した。「最大の賢者とは、自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」と指摘した。
 ソクラテスが信託により最も賢いという評判とともに、無知を指摘された者たちは彼を恨んだ。また彼の弟子たち(実際にはただ聞いていた人々)が同じ論法で他者をやり込め、ソクラテスへの憎悪が世間に広まった。
 その憎悪を持つものに、当時の政治指導者たちもおり、ソクラテスを攻撃する口実を見つけようとしていた。「ソクラテスはアテナイ国家の神を信じておらず、違う神を信じて教えたので若者たちが堕落した」という罪状で裁判にかけた。
 ソクラテスは、裁判で自説を曲げず、謝罪もしなかったため、死刑宣告を下された。当時はワイロ等で簡単に脱獄できた。ブラトンも脱獄の手引きを画策し、牢屋のカギはいつも開けられていたが、ソクラテスは自身の知への愛(フィロソフィア)と「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、票決に反して亡命するという不正を行なうよりも、死と共に殉ずる道を選んだとされる。
 ソクラテスの刑死の後、(ソクラテス自身が最後に予言した通り)アテナイの人々は不当な裁判によってあまりにも偉大な人を殺してしまったと後悔し、告訴人たちを裁判抜きで処刑したという。
 この顛末は、弟子であるプラトンの著作『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』にくわしく書かれている。

 プラトンとクセノポンによる共通の「ソクラテス像」

  • 金持ちではなく、質素で自制的な生活をしていた。
  • 身体的および知的な鍛錬に勤めていた。
  • 敬神家であり、ダイモニオンの諭しに従っていた。
  • 善き市民・国家運営者」を養成していくための各種様々な教育に熱心だった。(自分で教えられるものは自分で教え、自分で教えられないものはその道の専門家を紹介した。)
  • 問答法のような明瞭かつ徹底した議論・検討・教授方法を好んだ。
  • 特に「道徳・人倫に関わる抽象概念」の明確化を試みる議論を好んだ。(しかし、それは行き詰まることも多かった (アポリア)。)
  • 無報酬で、誰とでも問答した。
  • 彼を慕う国内外の仲間・友人(弟子)に囲まれていた。

ソクラテスの弟子たち

 ソクラテスには、カイレポン、クリトン、プラトン、アリスティッポス、アンティステネス、エウクレイデス、クセノポン、アルキビアデス、クリティアス等々、「弟子」だという人々が数多くいるが『ソクラテスの弁明』によると、ソクラテス自身は「誰でも聴くことを望む者があれば、青年であれ老人であれ、何人に対してもそれを拒むことはなかった」。貧富の差別なく何人の質問にも応じ、問答してきただけであって「かつて何人にも授業を約束したことも授けたこともなく」「いまだかつて誰の師にもなりはしなかった」と考えていたようである。

ソクラテスの思想

 「神のみぞ知る」というのは彼の決まり文句。神々への崇敬と人間の知性の限界(不可知論)を前提とする、極めて伝統的・保守的な考え方である。 
 「無知の自覚」を背景として「知っていることと知らないこと」「知り得ることと知り得ないこと」の境界を理解すること。
 「人間には限界があるが、限界があるなりに知の境界を徹底的に見極め、人間として分をわきまえつつ最大限善く生きようと努める」という姿勢が、多くの欠陥・不備・素朴さがあっても、半端な独断的な人々よりは思慮深く、卓越した人物である・・・・という思想。
 また相当皮肉な人物であったようで、死刑が確定し、妻のクサンティッペが「無実の罪で死ぬなんて!」と嘆いた時も、「じゃあ僕が有罪で死んだほうがよかったのかい?」といったといわれる。

より詳細は Wikiを参照-ソクラテス